2024年哲学の旅

2024年3月3日、自担が結婚した。
こんなとき、世界でいちばん大好きな人、なんて風流な言葉が使えない自分のことはいったんスルーさせてほしいけれど、少なくともここ2年くらいは「いちばん」と表してもいいくらい熱量を注いでいた自担が結婚した。

週刊誌報道などもなく、あまりにも突然の出来事で、とりあえず笑うしかなかった。そのあとにじわじわ嬉しい気持ちがこみ上げてきて、笑いながらおめでとう、と言った。

事務所のサイトに掲載された彼の文章は、私の知っている彼そのもののような言葉だった。
まずは端的な報告、そしてこれまでの応援への感謝、ファンへの寄り添い、メンバーへの感謝、将来への抱負、結びの挨拶。
ビジネスマナーの教材のようでもあるこの文章は、結婚報告の文書として、これまでで最も、素直に祝うしかないなこれは、とすんなり受け入れられたものだった。あくまで私の体感でしかないが、SNSには似た考えの人が多かったように感じる。
これまでも「自分はいいけど、自分のことを応援しているファンはどう思うか」という視点を持ち、言及し、ブラッシュアップしてきた彼らしい、アイドルとしての「自覚と誇り」を可視化したようなファンへの寄り添い。この部分において、やはりどこまでもアイドルでいてくれる安心感が受け入れやすい要因のひとつでもあると考えられる。正直に言ってこの部分だけで『完敗』のひとことに尽きる。
寄り添いながらも、「愛と最高のエンターテインメントを届けていけたら」「ファンの皆様と一緒に美しい光景を」「今後の新たな(自分)に期待してくだされば幸いです」と美しく結ぶ。彼の所属するグループに似合う、美しい言葉で。どうかこの先も一緒に、と。

どこか寂しい気持ちがあることは否定できないけれど。
昨年秋にリリースされた曲を聴きながら、なぜか不思議と「はやく結婚しないかな~」と思っていた自分の第六感にもまた笑って。
そうやって、寂しい気持ちを奥底にしまって、笑いながら応援しつづけていくんだ、と思った。

その感情が180度変わったのは、その翌日のことだった。
3月4日に報道各社に送られた、事務所伝統のご挨拶品。
美味しそうなお菓子に添えられたコメント。

チョコレートに添えられた、哲学の言葉。

哲学の言葉を引用することは、作家としての側面がより際立ったここ数か月の彼らしく、知的なイメージも相まって好印象を与えるであろうことは想像に難くない。

しかし、私はこの哲学の言葉に絡めとられ動けなくなってしまった。

 

”世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。
すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、きみ自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう”



いやいや待ってくれよ、というのが素直な印象だった。
昨日までのあの寄り添ってくれていた優しい彼はどこへ?と思った。

まるで、素直に祝福することが出来ないファンを否定するような言葉ではないか。

だれひとりとして取りこぼさないように、きっと考え抜いてくれたのであろう言葉をくれた前日と打って変わって、置いて行かれたような気分になった。曲解であることは百も承知だけれど、彼が結婚という選択をして幸せに生きることを肯定しなければならず、寂しく思うことすらも許されないように感じた。そうでなければ、世界は狭く暗いままなのだと。


彼が自分のファンのことをどう分析しているのかは知る由もないが、少なくとも私は彼を応援するにあたり「なぜ」「どうして」という部分にかなりこだわってきた(らしい)。
らしいとつけたのは、あまりにこの件に関して怒りが収まらず友人に話を聞いてもらったところ、「ほんと彼の担当らしい行動、思考回路」だと分析されてしまった。しかし思い返すと友人の言うことは正しく、彼の行動、言動の理由を突き詰めて考えるのは無意識の癖のようだった。
彼が文章を書く人だからか、私が読書好きな人間だからか、「言葉」に関する部分は殊更に追及したくなるようだった。

そこで今回も、彼の思考回路をとことん突き詰めようと腹を決めた。
彼が引用した言葉には作者名がヴィトゲンシュタインと添えられており、『論理哲学論考』という本の「超訳」からの引用であることは簡単に判明した。

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは1889年にオーストリアの大富豪一家の第9子として生まれ、イギリスの大学で研究を進めた哲学者。独裁者として名を馳せたヒトラーと同年生まれで、同時期に同じ学校に通っていたというエピソードもある。第一次世界大戦後に発表した『論理哲学論考(通称:論考)』が代表的な著書。1951年4月29日没。

ちなみに今回哲学とともに送られたチョコレートは、フランス生まれのパティシエがイタリアで興したブランドのもの。国内にも東京都内を中心に10店舗あるものの、彼が「ゆかりの地」としてきた土地との関連はなく、なぜ選ばれたのかは謎。(真偽不明ではあるが、ヴィトゲンシュタインはチョコレートが好きだったとか。)

今回引用されたのは論考の「超訳」。
超訳とは、意訳にも近いが、「原文を直訳したものを、日本語で分かりやすく再編したもの」という認識で間違いがなさそうだ。改変が加えられており、意図が恣意的に変えられているとして忌避する人もいるジャンルでもある。

まずここに引っかかる。

文章を生み出す作家である彼が、本人の死後、数多の人の手が加えられた超訳を真っ向から肯定しても良いものなのだろうか。

とはいえ、この超訳がどの程度原文から乖離しているのだろうか。
そこで私が購入したのが丘沢静也訳の論理哲学論考である。
いくつも発行されている日本語版の論考の中で丘沢訳を選んだ理由が明確なわけではないが、2014年初版発行と新しい本であることはひとつの決め手となった。

哲学書を読み慣れているわけではないので時間をかけてじっくりと、3周読んだ。
記号や慣れない言葉遣いに苦戦しながらも、時折すっと飲み込める言葉があり、新たな読書体験になった。

さて、チョコレートに添えられた哲学は、というと。

“善意または悪意が世界を変えるなら、変えることのできるのは、世界の限界だけである。事実を変えることはできない。言語によって表現できるものを、変えることはできない。
要するに、そのとき世界は、意思によって別の世界になるに違いない。いわば全体として、世界のサイズが増減するにちがいない。

幸せな者の世界は、不幸せな者の世界とは別の世界である。“

ここで敢えて、超訳を再引用する。

“世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。
すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、きみ自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう”

分かっていたことではあるけれど、やはり受ける印象が全く違う。

6.43と番号が振られている丘沢訳の論考において、6.431には
“それはまた、死んだときに世界は変わらず、世界が終わることに、似ている。”
と続いている。
そもそも5.6では
“私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。”
と記されている。

丘沢訳の論考を読んで受ける印象からは、変化を受け入れられない人、変化をしない人を否定するニュアンスは感じられない。哲学らしいと言えばそうなのかもしれないが、ただ、そういう事実、といった印象がある。私が丘沢訳の論考のこの部分を超訳するとすれば

“善意や悪意で世界は変わらないが、変わるとすればその人の世界の広さだ。善意や悪意といった意思によって、自分の知識や知見を広げ、世界を広げることができる。
この「広がった世界」は、自分を幸せだと思う人と、不幸せだと思う人とでは全く別のものになる。“

とするかな、と思う。論考読んだだけの哲学素人が出しゃばるような真似をするものではないと重々承知しているけれども。

それでも、ポジティブ思考になる為に人の手が加えられた超訳は、やはり安易で、翻訳ではなくあくまでも超訳なのだと思い知った。

彼にとって大きな決断で、アイドルとしては勝負のタイミングで、超訳を引用したのはやはり安易だったのではと思う。論考を全文読んでいれば、「世界」という言葉の意味ひとつとっても、あの超訳とは違うニュアンスを感じ取れるはずなのに。超訳だけ読んで日本語版の論考を読んでいないなんてことはあるのだろうか。ラジオとか雑誌とかそこまで熱心には追えてないけどどこかで論考に触れている話があるのだろうか。
考えれば考えるほど、彼の言葉選びに(時に腹を立てることはあれど)惚れ込んできたこれまでと乖離があり、この1件のみで大幅に評価を下げることにした。

どれだけあの超訳の言葉を彼が気に入っていたのだとしても、本来の論考から大きく意味が外れているという事実を無視することは、私にはできなかった。


結婚と、この哲学への意見の相違を持って、担当を降りることも考えないわけではなかった。
それでも私は現状、彼を応援しつづけることを選択している。

ファンになりたての頃。
彼が好きだと言った「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を、彼が読んだといった村上春樹訳で読み、あまりにも理解できずに、理解することを投げ出したことを思い出した。

10年前に同じ経験をしていた。

10年前、それでも応援していたのだから。
熱意に波はあったとしても、10年以上続けてきたものだから。

まあ、このまま続けていてもいいか、と、決めた。
自分の意思で。


そういうことなので。
引き続き喧嘩しながら応援していく所存です。
期待してるぜ、愛と最高のエンターテインメント。



せっかくなので、なんか好きだった論考の言葉をいくつか引用しておきます。

”4.114 哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界を決めることである。
哲学のするべきことは、考えることのできるものによって内側から、考えることのできないものを、境界の外に締めだすことである。“

 

”4.2211 たとえ世界がかぎりなく複合的であり、その結果、どの事実もかぎりなく多くの事態からなりたっていて、その事態もかぎりなく多くの対象で組み合わされているとしても、その場合にも、対象たちや自体たちが存在しているにちがいないのではないか。“

 

”5.511 すべてを包括し、世界の鏡像となる論理が、こんなに特殊な鉤針と細工をなぜ必要とするのだろうか? それは、これらがすべて結びついて、はてしなく繊細な網細工となり、大きな鏡になるからにすぎない。“

 

”6.36311 太陽はあした昇るだろう、というのは仮説である。いいかえれば、太陽が昇るのだろうか、昇らないのだろうか、は私たちにはわからない。“

 

”6.373 世界は、私の意思に依存していない。“

”6.374 たとえもしも、私たちの望むことがすべて起きるとしても、それはいわば、運命の恩寵にすぎないだろう。というのもそれは、意思と世界の間にあって、それを保証する論理的なつながりではないのだから。そして、物理的なつながりを想定するとしても、そのつながりを私たちは自分では欲することができないだろうから。“

 

”6.44 世界がどうであるかということが、神秘なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。“